写真と何か

「写真と何か」は、「写真とは何か」ではありません。写真と写真とは関係ないものとの共通項を見つけてそれを書いています。

第一回 写真と何か

 人が何かをやるときには二通りのやり方があると思っている。それを「絵を描く」という行為であらわすとすると下記のようになる。

 例えば、日本の国旗を描くとする。白い紙に赤い絵の具で丸を描くというやり方がひとつ。もうひとつは、赤い紙に白い絵の具で丸い形を作るというやり方だ。

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 形そのものを自ら描きコントロールする(前者)のか、環境を作り、形を浮かびあがらせていく(後者)のか。私は後者のやり方を選んでいる。それは私が後者のやり方じゃないと他人に勝てないと思っているからだ。

 美的なものに関心があれば通常多くの人が美術大学や文化を重んじる校風の大学を選ぶだろう。同じ目的を持つ高いレベルの人間と切磋琢磨して自信を鼓舞する。言ってみれば、前者のやり方だ。しかし、そういった環境にあるとダメになる人間もいるのも確かだ。独自のヒエラルヒーが作られその土壌で自分が作り上げられていく。勝利すればいいが、敗北したら悲惨だ。またそれは、勝利者が以後、後輩を指導する際にも同じ感覚で指導するだろう。プロ野球選手を多数輩出する強豪校のシゴキみたいで、一部の人間は浮かぶがシゴキにより将来をフイにした選手もいると思う。

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 私は写真をやっているが、殆どといっていいほど写真仲間や写真の指導者といった類の人と関わってこなかった。

 写真を趣味とする人は世の中ではマイナーであり、マイナーであるという立場のまま社会で生きていくことが好きだからだ。

 さらに、ワンちゃんや猫ちゃんそして紅葉や富士山、金閣寺を撮影しているのならば人々から安心されるのだが、私が撮っている写真は壁とか地面とか到底常識的な人間に理解されない。もちろん、美術系の人であれば理解されやすいのだが、それでは駄目なのである。自分が一生懸命撮影した壁とか地面の写真を説明し、見せて「ドン引き」されること。このことは自分が最も大切にしていることだ。「キモイ」と思われること。これがあるからこそ、日々の生活のバランスがとれる。中学生の時に入りたくもない写真部に途中で入ってそのことが授業中に写真部贔屓の先生から明かされると席の隣の人間がボソッと言った「これでまたオタクが増えた」という言葉を忘れない。そういう身分なのだ。TV番組を見れば暗い部活のベスト3に必ず入る写真部。大人になると見直されるのだが、そんな見直しなどいらない。

 マンションのゴミ捨て場には、ゴミをあさるカラスが数匹たむろしている時がある。人間には関心のない食べ残した廃棄物をあさるカラス。写真を撮る行為はすごくこれに似ていると私は思う。誰も見もしない場所、物に向けてシャッターを押す。今日もカラスの様に写真を撮りに行く。

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